経営者の方とお話していると、「うちは離職率が低いんですよ」と誇らしげに語られる場面によく出会います。たしかに、社員がコロコロ辞めていく会社よりも、長く働いてくれる会社のほうが安心感はあります。採用コストもかからず、ノウハウも蓄積され、お客様との関係も続いていく。いいことずくめのように見えます。
しかし、ここで一度立ち止まって考えていただきたいのです。
「社員が辞めないこと」は、本当に経営の目的なのでしょうか。
社員の定着は、間違いなく会社の成長にとって重要です。ただし、それ自体が目的になってしまうと、不思議なことに、会社はかえって前に進めなくなってしまうのです。今回は、この少しややこしい話をできるだけ噛み砕いてお伝えしたいと思います。
「引き止めないと回らない会社」は、すでに経営が成立していない
ここで、はっきりさせておきたいことがあります。
「社員に辞められると困る」という状態は、それ自体がすでに不健全だということです。
人が辞める理由はさまざまです。家庭の事情、健康上の問題、キャリアアップ、価値観の変化。経営者がどれだけ努力しても、防ぎようのない退職は必ず起こります。にもかかわらず、誰かが辞めると業務が回らなくなる、誰かに辞められたら会社が傾く——そんな状態の会社は、引き止めに成功しているうちは何とか回っているように見えても、実は綱渡りをしているだけです。
そして、もっと深刻なのは、この状態が経営者と社員の力関係を逆転させてしまうことです。「辞められたら困る」という前提で経営をしていると、経営者は社員に対してものを言いにくくなります。厳しい指摘もできず、必要な変革も進められず、気づけば社員のご機嫌をうかがう日々。これはもう、経営者が経営しているとは言えません。辞めるという切り札を社員に握られたまま、その顔色を見て判断する状態になってしまっているのです。
属人化という、静かに進行する病
「引き止めないと回らない」状態を生み出す最大の原因が、「属人化」です。
長く勤めてくれる社員には、自然と特定の業務が集まっていきます。「あの仕事は山田さんしかわからない」「経理のことは佐藤さんに聞かないと進まない」といった状態です。本人たちは頼りにされて気分がいいですし、会社としても安定しているように見えます。
ところが、これが進行すると、会社は徐々に「その人がいないと回らない」構造になっていきます。仮にその社員が病気で長期休養することになったら? 急に退職することになったら? あるいは、その社員が「自分にしかできない仕事」を盾にして、変化を拒むようになったら?
ある中小企業の例を挙げてみます。創業20年のメーカーで、製造現場を一手に仕切るベテラン社員がいました。仕事は確実、後輩の面倒見もよく、社長からの信頼も厚い人物です。ところが、新しい生産管理システムを導入しようとしたところ、このベテランが「今のやり方で十分回っている」「新しいシステムは現場を知らない人間の発想だ」と猛烈に反対しました。
ここで問題なのは、社長が彼に逆らえなかったことです。彼が辞めたら現場が止まる——その事実が、経営判断を縛っていたのです。結局、システム導入は見送りになりました。それから数年、競合他社はデジタル化を進めて生産性を上げていきましたが、その会社だけは古いやり方のまま取り残されてしまったのです。
これは「優しい社長の話」ではありません。「経営の決定権が、いつの間にか一人の社員に握られていた話」です。属人化が進むと、こういうことが静かに、しかし確実に起こります。
新陳代謝こそが、会社を若く保つ
人間の体を考えてみてください。古い細胞がそのまま居座り続けたら、私たちはどうなるでしょうか。実は、健康な体というのは、絶えず細胞が入れ替わっているからこそ機能しているのです。会社もまったく同じです。
人が辞めることは、決して敗北ではありません。新しい人が入ってくることで、会社には新しい視点、新しいスキル、新しい人脈、新しい常識が持ち込まれます。これがなければ、会社はゆっくりと時代から取り残されていきます。
長く同じメンバーで働いていると、いつの間にか「うちはこういうやり方でやってきたから」という言葉が魔法の呪文のように使われるようになります。これが出始めたら要注意です。新しく入った人が「なぜこうしているんですか?」と素朴な疑問を投げかけたとき、「いや、よく考えたら理由がない」と気づける会社は健全です。逆に「昔からそうだから」で押し切る会社は、知らぬ間に化石になっていきます。
ちなみに、化石は博物館では価値がありますが、市場では売れません。
経営者が本当に向き合うべきこと
ここまでお読みいただいて、大切なのは、判断の軸を「定着率」から別のものに移すことだとお気づきいただけたかと思います。
経営者が本当に向き合うべきは、次のような問いです。
一つ目は、「特定の個人に依存しない仕組みになっているか」という問いです。誰が辞めても、会社が回る。業務の手順が共有され、情報がオープンになり、誰でも引き継げる状態になっているか。これは社員を軽んじているのではなく、むしろ社員一人ひとりに過剰な負担をかけない経営のあり方です。そして同時に、経営者が誰の顔色もうかがわずに判断できる状態をつくることでもあります。
二つ目は、「うちの会社は、社員にどんな成長機会を提供できているか」という問いです。引き止めや待遇でつなぎとめるのではなく、ここで働けば成長できると感じられる環境をつくる。そういう会社には、自然と人が集まり、自然と残ります。逆に、成長機会のない会社で「辞めないでくれ」と引き止めるほど、虚しく、お互いにとって不幸な経営判断はありません。
三つ目は、「新しく入ってくる人に開かれた組織か」という問いです。新人が遠慮なく疑問を投げかけられる雰囲気、若手の意見が経営に届く仕組み。これがあるかないかで、会社の寿命は大きく変わります。
おわりに——会社を長く続けるために
社員の定着は、たしかに大切です。しかし、それ自体を目的にしてしまうと、会社はかえって脆くなり、変化に対応できなくなってしまいます。
できるだけ属人的なものから離れること。そして、人が辞めて血が入れ替わることを、過度に恐れないこと。新しい人が入ってきて、新しいものを取り入れていくからこそ、会社は前に進むことができます。
目指すべきは、「誰にも辞められない会社」ではなく、「誰が辞めても困らず、新しい人が来てくれて新しい風が吹く会社」です。逆説的ですが、そういう会社のほうが、結果として社員も安心して長く働けるものです。引き止められて残るのと、自分の意思で残るのとでは、まるで意味が違いますから。
会社を長く続けたいのであれば、まずは「辞めさせない経営」から、一歩離れてみてはいかがでしょうか。

ミタスサポート事務所代表。富山県で中小企業向けに経営とIT支援を行っています。
中小企業診断士/ITストラテジスト/情報処理安全確保支援士。
確かな知識と実務経験を元に、役立つ情報を随時発信中。
小さな事業者向けに小回りの利くITサービスやサイバーセキュリティ対策に力を注いでいます。

