「これは経験がないと無理だよ」——中小企業の現場で、一度は耳にしたことのある言葉ではないでしょうか。ベテラン社員が担っている仕事を若手に任せようとすると、たいていこの返事が返ってきます。経営者としても「まあ、そういうものか」と、つい受け止めてしまいがちです。
ですが、少し立ち止まって考えてみたいのです。その「経験がないとできない」は、本当に経験そのものが必要なのでしょうか。それとも、経験の中身がまだ言葉になっていないだけなのでしょうか。この記事では、”経験が要る仕事”の多くが、実は「手順にできていないだけ」ではないか、という視点を、中小企業の経営者の方に向けて整理してみます。読み終えるころには、任せられる仕事がぐっと増えて見えるはずです。
「経験が必要」の正体は、たいてい”言葉になっていない手順”
仕事の知識には、大きく二つの種類があります。ひとつは、手順書やマニュアルのように、誰が読んでも同じように理解できる形になった知識。もうひとつは、ベテランの頭の中にだけあって、本人も説明しきれていない知識です。前者を「形式知」、後者を「暗黙知」と呼びます。むずかしい言葉ですが、要は「書き出せているか、いないか」の違いだと思ってください。
「経験がないとできない」と言われる仕事は、たいていこの暗黙知のまま放置されています。そして多くの現場で、この暗黙知は「秘伝のタレ」のように扱われています。継ぎ足しで大切に守られ、なぜその味になるのか本人もうまく説明できない。飲食店なら看板メニューになりますが、これを日常業務でやってしまうと、そのベテランが風邪をひいて休んだ日に、会社の一部が静かに止まります。おいしさは属人化しても構いませんが、業務の属人化は、経営にとってなかなかスリリングな状態です。
「うちの仕事は例外が多いから」は、反論になっていない
こういう話をすると、よくこう返されます。「うちの仕事は例外が多くて、マニュアルにできない」。気持ちはとてもよく分かります。ですが、少し意地悪な言い方をすれば、この反論は反論になっていません。
なぜなら、例外というのは、要するに「条件分岐」でしかないからです。「Aのときはこうする、Bのときはこうする」。この分岐を一つずつ洗い出して、判断の基準を言葉にして書けば、それはもう立派な手順になります。例外が多い仕事とは、”手順化できない仕事”ではなく、”分岐がまだ整理されていない仕事”なのです。
「基準にない場合」も、実は手順の一部です
「とはいえ、どうしても判断がつかないケースがある」——これももっともです。ですが、そういうときにどうするかも、そのまま手順に書けます。たとえば「判断基準に当てはまらない場合は、上長に確認する」「金額が一定を超える案件は会議にかける」。これも、りっぱな条件分岐の一つです。
つまり、「迷ったら○○さんに相談する」と書いてある手順書は、不完全な手順書ではありません。むしろ、ちゃんと機能している手順書です。すべてを一人で判断させる必要はなく、「ここから先は人に聞く」という線を引いておくこと自体が、立派な仕組みなのです。
具体例で考えてみます
たとえば、ある中小企業で、見積もりの作成がベテランのAさんに集中している、という状況を考えてみます。Aさんに理由を聞くと、「これは長年の経験と勘だから、教えるのは難しい」と言います。いかにも”経験がないとできない仕事”の典型に見えます。
ところが、Aさんの仕事を横で数日眺めてみると、実際にはこんな判断をしていることが見えてきます。
- 材料費に、標準では〇%を上乗せしている
- 相手が新規のお客様か、リピートのお客様かで、その率を少し変えている
- 納期が急ぎのときは、割増しを乗せている
- 競合が入っていそうな案件は、逆に少し攻めた金額にしている
お気づきでしょうか。「経験と勘」と呼ばれていたものの正体は、いくつかの条件分岐と、いくつかの数値だったのです。これを書き出し、「粗利が〇%を下回る見積もりだけは、必ずAさんに確認する」という一文を添えれば、そのまま手順書になります。この一枚があれば、入って間もない新人でも、見積もりの八割はつくれるようになります。残りの二割、つまり本当に判断が難しいところだけ、Aさんの出番として残しておけばよいのです。
手順化とは、”誰でも・AIでも実行できる形”に翻訳すること
ここまでの話をまとめると、手順にするという作業は、ベテランの頭の中にある暗黙知を、誰でも実行できる形に翻訳することだと言えます。そして、いったん形式知に翻訳できてしまえば、それを実行できるのは新人だけではありません。今は、多くの定型業務をAIに任せることもできる時代です。
裏を返せば、こういうことです。「経験がないとできない」と思い込んでいた仕事の多くは、経験が足りなかったのではなく、ただ翻訳がされていなかっただけだったのです。自分の仕事がAIにもできると知ると、少し複雑な気持ちになるかもしれません。ですが経営の目線で見れば、「人に頼らず回る仕事が増えた」というのは、まぎれもない朗報です。
手順にするための、現実的な進め方
では、実際にどう進めればよいのか。難しく考える必要はありません。次の順番で十分です。
- 観察して、質問する。 ベテランの隣で作業を見て、「今、なぜそう決めたのですか」と聞き、答えをそのまま書き留めます。
- 分岐を洗い出す。 「どういうときに、やり方が変わるか」を一覧にします。ここが手順化の心臓部です。
- 判断の基準を、数値や条件で書く。 「なるべく早く」ではなく「三営業日以内なら」のように、人によって解釈が割れない言葉に置き換えます。
- 迷ったときのルートを決める。 「基準に当てはまらないときは誰に聞くか」を明記します。
- 新人に試してもらう。 実際にやってもらい、つまずいた箇所をその都度、手順に書き足します。
注意点 ── 完璧な手順書を、一度でつくろうとしない
最後に、大切な注意点をひとつ。最初から完璧なマニュアルを目指すと、たいてい挫折します。初版は七割の出来で構いません。手順書は、運用しながら育てていくものだと考えてください。実際に使ってもらい、抜けが見つかるたびに書き足していけば、半年後にはずいぶん頼れる一冊になっています。
もちろん、世の中には本当に言語化しづらい領域も残ります。込み入った経営判断や、ゼロから何かを生み出す仕事、相手の機微を読む対人対応などは、簡単には手順になりません。ですが、それは仕事全体のごく一部です。「経験がないとできない」と言われている仕事の大半は、翻訳を待っているだけ——この前提で職場を見渡すと、任せられる仕事は驚くほど増えていきます。
まとめ
「経験がないとできない」を一度疑ってみること。それだけで、属人化が減り、担当者が安心して休めるようになり、新しい人を採用するハードルも下がります。会社としては、いいことばかりです。
もし「どこから手をつければいいか分からない」と感じたら、まずは“その人が休んだら止まる仕事”を一つ、紙に書き出すところから始めてみてください。それが、手順化の最初の一歩になります。棚卸しの進め方や、どの業務から着手すべきかで迷われた際は、外部の視点からお手伝いすることもできますので、お気軽にご相談ください。

ミタスサポート事務所代表。富山県で中小企業向けに経営とIT支援を行っています。
中小企業診断士/ITストラテジスト/情報処理安全確保支援士。
確かな知識と実務経験を元に、役立つ情報を随時発信中。
小さな事業者向けに小回りの利くITサービスやサイバーセキュリティ対策に力を注いでいます。

